2013年10月22日火曜日

Anne Frank Tagebuch(アンネ・フランクという女の子)

アムステルダムで美術館以外に有名な場所といえば、アンネ・フランクとその家族ら8人が2年半にわたり潜伏していた「隠れ家」ではないでしょうか。

実は私はこのテーマを大学から研究していながら、まだアンネの日記を読んだことがありません・・・聖書に次ぐ、世界で2番目に多く読まれている本だというのに!本も読んでいないのに今思えば偉そうなことを言っていたなぁと思いますが、これまでなぜそこまでこの少女が有名になったのか、わかりませんでした。確かに彼女の身に起きたことは悲劇だけど、彼女と同じ運命を辿ったユダヤ人は600万人いるし、彼女同様日記を綴っていた人も多かったはず。日本ではあまり知られていませんが、アンネ以外のユダヤ人やナチスに弾圧されていた人々の日記、回想記は数多く出版されています。なぜ、この少女だけが世界中でこんなに有名になったのか?唯一生き残ったという父親が出版業界にコネがあったのか?なんて勘ぐっていました。彼女の日記も読まずに。


今回アンネ・フランクハウスを訪れ、そこで紹介されていた彼女の日記の一部や隠れ家の内部、そこでの生活の様子を見て、その答えが出た気がします。





建物の外観
平日の夜、その日は19時に閉館と思っていたので、翌日の下見のためのつもりで18時50分頃に訪れると、まだ続々と人が入っていくので私たちもそのまま見学しました。ぎりぎり夏のシーズン扱いで21時くらいまで空いてたのかな?

アンネが貼った、好きな映画スターのポスターや父オットーが壁に書いた、娘たちの身長の伸びを記録した線。目張りされ、開けられることは決してなかった窓。

大規模な改装工事がされたそうですが、室内の様子は当時のままを保存しているとか。

アンネの、15歳の少女とは思えない、成熟した精神性にまず驚きました。普通の女の子らしく家族の悪口を書いたり、友達とのことも書いているのですが・・・当時の絶望的な状況を悲観しつつ、その状況を実に客観的に捉え、冷静に分析しているその心の強さと観察力の鋭さ。

当時はロンドンに潜伏していたオランダの亡命政府が、耐え忍ぶオランダ国民に「生活を記録した日記や日誌の類を保存しておくように」と呼びかけたのを、アンネを含む隠れ家の住人が聞き、アンネの日記がいつか出版できるのではないかと期待して、アンネ本人も編集作業をしていたようです。それで、いくつものバージョンがあるのですね。
彼女が生き残っていたら、素晴らしい物書きになっていただろうな、と思わずにはいられません。


ベルゲン・ベルゼン強制収容所、アンネと姉マルゴが亡くなった収容所跡地も見学しました。彼女たちはどこに埋葬されているかも、どこでいつ亡くなったかもわかっていません。

アンネたちの苦難の出発点と終着点、その両方を見学することが、私のアンネ・フランクという少女との初めてのつながりとなりました。

娘たちの帰還を信じて待った父オットーですが、結局彼以外の隠れ家の住人全員が帰ってきませんでした。その後はアンネの日記の出版や隠れ家の保存運動、平和運動に励むオットーですが、戦後に撮影されたという、隠れ家で一人寂しげに佇む彼の横顔の写真が今も忘れられません。


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