2013年7月27日土曜日

KZ Sachsen-hausen,Wansee-Konferenz Museum(ザクセンハウゼン強制収容所とヴァンゼー記念館)

ベルリン二日目はフィールドワークの日。
ベルリンの郊外、Oranienburgまで電車で行き、そこから徒歩で20分ほどのところにあります。ミュンヘン郊外のダッハウも以前見学に行き思ったのですが、ドイツ国内の強制収容所って閑静な住宅街のすぐ近くにあります。当時からそうだったのか、それとも戦後の開発でそうなったのか。庭に花が溢れる住宅地とその奥にある強制収容所というギャップが、なんとも不気味というか皮肉というか・・・




「死の行進」のモニュメント

収容所の全体像

ここで亡くなった方の子どもが建てた慰霊碑

さまざまな集団に対する慰霊碑がたくさん

悪名高きスローガン、「働けば自由になれる」






集団処刑が行われたスペースや焼却炉、ガス室の跡も残っていましたが、写真には撮れませんでした。脱衣所からガス室、そして焼却炉へ・・・と全体図を見ると、そのあまりの「効率の良さ」に吐き気を覚えました。じつに機能的に、効率よく、「作業」は進められていったのだなぁと。

この日は平日だったにも関わらず、見学者はたくさんいました。私と同い年くらいのヨーロッパ人のお兄さんが、ガス室の前で目頭を押さえていた姿が印象的でした。私はこの事象に対して「同情」はしても、その苦悩に対して「共感」はできないとつねづね感じます。大陸の違いなのかなぁ。



ベルリンの北部から、今度は南西部へ。この日は移動距離が物凄かった。

ヴァンゼー会議が行われた湖沿いの高級住宅地、ヴァンゼーへ。






1942年1月に、それまで組織立って行われていなかった「ユダヤ問題最終解決」=ホロコーストを最優先事項として組織的に行うために、ヒトラー政権の高官たちが集まったのがこの会議。

現在は記念館として、たくさんの史料を展示しています。








「・・・最終解決への過程では、相応の管理指揮のもとユダヤ人を適切な方法によって東方での労  働配置につかせるものとする。性別ごとに編成した大規模な労働集団単位で、労働可能なユダ  ヤ人を当該地域の道路建設に従事させる。ここで大部分は間違いなく自然に淘汰されていくであ ろう。


  予想に反し最終的に生き残った者に関しては、これらは間違いなく抵抗力を持つ集団であるた め、相応に対処する必要がある。なぜならばこれらは自然淘汰を体現しており、解放されればユ ダヤ再建の萌芽となるからである。 (歴史を振り返れば明白である)・・・」


(会議の議事録より)


この会議後、東ヨーロッパでの大量殺戮や強制収容所の稼働、ガス室での殺害が拡大・加速していったことはいうまでもありません。

こんな美しい別荘で、そんなことを決めたとは。

2 件のコメント:

  1. 今日の研究会で、杉原千畝のビデオを見たよ。

    ホロコーストを授業で扱っている先生もいらっしゃるけど、
    結局、(異なる形であったとしても)民族浄化をし得る条件を我々も持っているんだろうな、と思うと、その最悪の産物であるホロコーストも、とても恐ろしく感じるな。

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    1. 本当にそう思います。ドイツ人に関東大震災時の日本人の手による朝鮮人の大虐殺の話をすると、唖然とされますね。同じじゃないかと。ベルリンのホロコーストセンターで見た展示ですが、「一度起きたということは再び起こる可能性がある」というのは、胸に刻んでおきたい言葉です。

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